ファイバーパンク&ファッションパンク - Yarn (2011) by Jon Armstrong(1)紹介

 才能と富に満ち溢れたファッション・デザイナー、テーン・セダーはある日仕事場で、粗布を引っかぶった人間の訪問を受ける。彼女の声は聞きたがえようもなく、遠い昔に彼が愛した女性ヴェイダのものだった。苦痛を終わらせるために《Xi》の服を作ってくれと請われたテーンは違法な素材《Xi》の繊維を求めて、非合法の商人のアジトから南極まで駆けずり回る。彼女と過ごした幸福な時間と、彼の運命を決定的に変えてしまったファッションの魔都シアトルハマ(Seattlehama)での体験を思い返しながら、テーンは久々に無謀な冒険を続けるのであった。
 現代パートではテーンが《Xi》の手がかりを追っていく。《Xi》は麻薬で、服の形にして皮膚にまとうことで摂取するもの。世界と一体化するような快楽と、痛みどめの効果があるが、使用を繰り返せば皮膚が焼け、傷になってしまう。現在は取り締まりも厳しくなり、入手はとても困難になっている。

 本書の重点は、過去パートにおいてある。労働力として生まれた男たちは、自分が属する氏族(clan)が生産する野菜に生涯を捧げ、働けなくなると「リサイクル工場」に赴く。制服は着心地が悪く、粗悪で、洗濯もままならない。ホルモンバランスを制御するための加工がなされてもいる。優秀な個体以外は一生、女性を知り、子をもうけることもない。それでも男たちはなんの疑問も持たず、自分の所属する氏族へ生涯尽くし続ける。
 トウモロコシ作りを基幹にしている有力氏族《M-Bunny》のテーンは、父を亡くした後、ファッション産業とセックス産業で成り立つ観光都市シアトルハマの仕立て屋で奉公を始める。奴隷扱いされ、意地悪なオーナーに辛くあたられた彼は、じつは繊維と服飾に関する天賦の才を持っていた。しばしの間、オーナーに命じられて他人の服から繊維を掏りとる仕事をさせられる。だが、自由の代償として請けた最後の盗みの現場で殺人が起こり、はめられたことに気づいたテーンは逃走する。
 紳士のロマンのための下着を編む、若く美しいキラ・シブイ。色々と世話を焼き、テーンに仕事を紹介する謎の女ピラー。そして空中艇で興行を続ける一座の女、年を経てなおも魅力的で、一目みたときからテーンの心をとらえて話さないヴェイダ。消費と退廃に満ちた大都市で、何も知らなかった青年は一から服作りのイロハを学び、見る間に才能を開花させていく。
 いくつもの愛と別れ。きらびやかな都に君臨するトップ・デザイナー、ミス・バンの所業と生い立ち。父と出生にまつわる、テーン自身の謎。ヴェイダ一座と共にミス・バンへ対抗するレジスタンスに身を投じた青年テーンは、するすると布をほどくように秘密を知っていく。かつて彼がシアトルハマで何をして、何をしなかったのか、ヴェイダの身には何があったのか――物語はクライマックスへ突き進む。
 
 舞台は「ロス・ベガス」「シアトルハマ」など少しずつ地名が変わった未来のアメリカだ。豊かに発展した、夢の未来都市が描かれる一方で、それを支える労働力の、人の命の安さも描写される。非人間的な労働力の管理が、元はといえば平和でよりよい世界を作るための手段だったことも示唆される。ウィリアム・ギブスンニール・スティーヴンスンを思いださせる都市描写の濃密さと、とぎれなく飛び出す造語やガジェットは確かにサイバーパンク風である。すこしニューウェーブがかってもいる。どこを切ってみても耳慣れぬ造語が飛び出してくるが、それでいてリーダビリティは抜群だ。
 「サッポロ・ハイアール」と呼ばれる七輪自動車が街を行きかい、バンパーについたロボット・アヒルが通行人にしゃべりかけてくる。あちらこちらで日本語や日本文化を思わせる要素も登場する。宝石箱のようなファーストフード。洒落た流行スナック「タコ・ドロップ」。超小型ミシン「ミニ=ジューキ」などだ。

 客の心をつかむため、もしくは敵を挑発したり、人の耳目を集めるために「セールス・ウォリアー」が繰り出す「ウォー・トーク」の詩的な連なりは、まるでファンション産業のおしゃれすぎるキャッチコピーのよう。ブランド同士の激しい抗争では、比喩ではなく人が死に、血が流れる。見目麗しいセールス・ウォリアーたちは編み針を交え、夜ごと火花を散らす。客に制限時間内にものを買わせないと、首輪がしまって死んでしまう売り子もいる。シアトルハマはおそるべき消費と競争の街なのだ。ミス・バンの過去を題材にした伝説にどっぷりとつかっており、行きかう者の多くが登場人物たちのコスチュームを装う。

 筋としてはビルドゥングスロマンである。若者が世界を知り、大人になる。そのシンプルな話を彩る想像力とテクニックがすばらしい。美しく装われた小説といえるだろう。ファッションが人をみじめにもし、自信を持たせもすること。ファッションによって人がどれだけ変身できるかということ。夢と希望、カルチャーが人に与える作用の大きさ。そんなことを噛みしめられる一冊だった。

Boxer, Beetle (2010) by Ned Beauman(2)解題篇

 本書には、一般的に言ってマスキュリンなモチーフばかり集められている。ボクサー、カブトムシ、ファシズムナチスドイツ。力強さ、すなわち格好よさという価値観が透徹しているわけだ。そしてManlinessが極まった結果、ホモセクシュアルホモソーシャルが結構目立つ話になった。 ジョーウォルトンファージング》三部作とは偶然にも、イギリス、ファシズムナチスドイツ、同性愛と比べたくなるキーワードが多い。
 モチーフの大部分はローチに集約されている。ボクサー=職業。カブトムシ=苗字はありふれたもので実在のボクシングトレーナーにも同名がいるが、同時にCockroachの略語として知られている。また、彼は自覚的なゲイとして描かれる(一度だけ、と情けを請われて女を抱くときに一生懸命男を想像するシーンがある) 粗暴さと嗜虐的なところが一種の魅力になって人をひきつける(ここでも強さへの偏執というテーマがくりかえされる)
 アースキンの同性愛的性向はもっとあいまいだ。軟弱でいじめられていたので強さに憧れたから、妹以外の女性と関わる機会がなかったから、といった理由も考えられる。彼が密かにローチに心ひかれていたのは(しかし周囲にはバレバレ)まあ間違いないが。
 現代パートのほうも、ケヴィンとネット友達スチュアートの仲の良さがすごいのだ。「他にやりとりをする人がいないから連絡先を暗記している」とか「生命の危険に見舞われた際に真っ先に助けを求める」とか。おまけにラストの仲直りシーンも微笑ましい。実際に会うことはないのに、趣味の繋がりと文字のやりとりだけでここまで強い結束を持つ姿に、同じオタクとして非常に共感するw 共通の話題がある人のほうが断然大事というのがね。

 テーマは「強さゆえの鈍感さ」「運命の理不尽への怒り」だろう。アースキンは人種・性別・階級といった面ではトップクラスであり、優位を自明のものとして疑ってもみない。自分が優れている数少ない部分にすがりついていると言ったほうがいいだろうか。そもそも屋敷に集う者には、妹とその許婚以外にリベラルな人間がいない。それからセス・ローチとケヴィンはどちらも、先天的に与えられたもの――身体の特徴だとか環境に鬱屈している。ローチが決定的にアースキンを見限り、後にあれだけ残酷な言葉をかけたのは彼が枠組みを捨てる勇気を持たなかったからだ。ローチが全然魅力的に見えないのが私が読む上で感じていたしこりだったのだけど、あらゆる束縛を嫌い、それが反抗や不品行という形で表われていたのを察せられる頃から、彼にも哀れみを持てるようになった。
 現代パートでA.Hitleriが出現するシーンは、まさに抑圧された凶暴さの噴出! あまりの展開に目を疑い、読み返してしまった。結局のところ、タイトル通りボクサーと甲虫の運命の物語なのだ。


【本書の瑕疵】
 晩餐会でのファシズム討論は、会話内容がそのまま記されているだけなのと、擁護側がそろってあまりに視野狭窄なので、やや浅く感じられる。また、フィリップ・アースキンの祖父が人工言語を自作するエピソードはやけに長すぎる。
 ミステリ部分は過去篇も現代篇も特にひねりがない。
【本書の魅力】奇人の登場多し。
 ドイツから来た詩人で、巨人と水棲ケンタウロスとこびとが闊歩する太古から始まる一族史の記憶があると言い張っている男。
 痛覚がほとんどないので、電化されたアースキン家の老朽化した電機に感電しても平気な召使い。
 生きたまま埋葬されることに不安と偏執を抱える下男。呼び鈴や空気穴つきの棺桶を用意しておくつもりで、一方的に屋敷のメイドに懸想し、彼女と一緒に入る棺おけを妄想している。
 フィリップ・アースキンの妹。不協和音を通り越して、ノイズミュージックではないかという曲を作る自称「アバンギャルド音楽家」のピアニスト。先進的な女性。
 ベッドにいるような害虫を研究し、自ら身体を提供している研究者、などなど。
 その後のフィリップ・アースキンは小さな町を作るのに尽力し、地名をローチと妹の故・許婚からもらう。現代、町の歴史家は当時のことを調べ上げて町の個性にしようと試み、飲み屋にローチ行きつけのゲイクラブから名をつけるわ、ホテルにローチが利用していた連れこみ宿の名をつけるわ、人工湖を作って許婚が死んでた沼に見立てるわ、である。ここでもまた空気の読めてないオタク活動の話になるとはなんともはやw
 なかなかお目にかかることのない言葉も出てきて、日本人が読むのは大変だが、スリリングな場面での疾走感ある語りには乗せられる。わりと薄いので読んで損はないだろう。多少の粗さは残っているものの、次の小説もぜひ読みたいと思わされた。

Boxer, Beetle

Boxer, Beetle

 3月に廉価版ペーパーバックが出る。ドイツ語版は『飛べ飛べヒトラー!』というタイトルになってるそうな。
Flieg, Hitler, flieg!: Roman

Flieg, Hitler, flieg!: Roman

 著者の次の長篇はまたもや1930年代を舞台にし、今度はベルリンにおける表現主義の話らしい。

Boxer, Beetle (2010) by Ned Beauman(1)梗概篇

 英国のエディター/ライター、Ned Beauman(ネッド・ボーマン)はロンドン在住の1985年生まれ。ガーディアン紙でアメコミや日本の漫画についてのコラムを書き、Dazed&Confusedではインタビュアーとして活動している。ケンブリッジ大学在学中は哲学を専攻しており、05年には同大学の在校生のみが応募できるThe Other賞(未発表の演劇脚本を対象とする)を受賞*1している。そして2010年、この長篇で小説家としての第一歩を踏み出し、いきなりガーディアン紙のファースト・ブック・アワードの候補になる(残念ながら受賞には至らなかった)
 なおファースト・ブック・アワードは、ガーディアン・フィクション・アワードが99年にいろいろと条件を改定して生まれかわったものだそうで過去にはゼイディー・スミスやジョナサン・サフラン・フォア、イーユン・リーなどに贈られた。近年ノミネートされた中にはスザンナ・クラーク『ジョナサン・ストレンジとミスター・ノレル』やライフ・ラーセン『T・S・スピヴェット君傑作集』の名もある。また、リニューアル前はマイクル・ムアコックやJ・G・バラード、ジム・クレイスアラスター・グレイなどへ与えられている。
 と、著者はこのように華々しい経歴の持ち主だが、本書は文化系ダメ男に満ちあふれている。中心人物である破滅派・魔性のボクサー、セス・ローチは荒くれダメ男だけど、残りは対人コミュニケーションが不得手だったり、何らかのマニアだったりと身に覚えのあるダメ野郎ばかりだ。本書の参考資料は、著者自身のサイトに公開されている。(http://www.nedbeauman.co.uk/bibliography.html


 特定のジャンルには収まらない本である。現代パートはコミカルなスリラーだし、クライマックスではB級ホラーか活劇かといったとんでもない出来事が起こる。また、史実を膨らませた部分もかなり多く、もしも邦訳されたらピンチョン全集よりは少ないにせよ、膨大な註を必要とするに違いない。


 本書のメインになっているのは1930年代半ばのイギリス。腕っぷしが強く、ギャングの使い走りをしていたユダヤ人の少年セス・ローチはイングランド最強の拳闘士(ボクサー)としてリングに立っていた。彼は人より足の指の数が1本少なく、かなり小柄ではあったが、奇妙な魅力を発散してたちまち熱狂的な支持を受ける。しかし残忍でひねくれた性格と酒好き、それに年若い少年を誘っては、一度寝たら痛めつけて放り出すという趣味はトレーナーの頭痛の種だった。
 ある日、試合を終えた彼の控え室に若い紳士が訪れる。貴族のフィリップ・アースキンだった。甲虫を愛し、遺伝の研究をしていた彼はファシズム優生学の魅力に傾倒しており、ローチの強さを生物学と遺伝学の立場から解き明かしたいと、彼に研究対象になるように請う。当然、ローチは手ひどくはねつけた。
 その後、ローチはギャングやユダヤ教のラビの支援を得て渡米するも、好き勝手に振舞って自国への帰還を余儀なくされた。酒びたりで身体はボロボロになり、施設に押しこめられる。他方、アースキンは別の昆虫研究者と向かったスロベニアで新種の甲虫を発見し、その鉤十字状の模様からA.Hitleri*2と命名した。アースキンは新種を英国へ持ち帰り、品種改良を試みる。
 二人は偶然ロンドンで再会し、生活に困窮したローチは今度はアースキンの申し出を受けて同居を始める。舞い上がったアースキンは実家で優生学の発表を行うため、ローチを連れてクララモアの邸宅へ赴く。アースキン家には科学に興味を持った当主の趣味で図書室にコンピュータが設置され、各部屋には電話とドライクリーニング室へ汚れた衣類を送るダストシュートが備えつけられていた。屋敷に集まった10人ほどのファシストたちはディナーの間、議論を交わす。あくる朝、アースキンの妹の許婚が近くの沼で死体になって発見される。


 ふたつめのパートは現代が舞台だ。主人公はケヴィン・ブルームという男。重度のトリメチルアミン尿症*3やその他の病気に悩まされ、人と関わりを持たない。ナチスドイツグッズコレクターで、どうやらアメコミや特撮のオタクでもある。ナチスドイツグッズ収集の同好の士が集うネットのフォーラムでの友人スチュアートが、親しい人間と呼べる唯一の存在だ(二人はゴジラVSモスラの特別版2枚組DVDは買う価値があるか、なんて会話もする)
 ケヴィンは実業家かつコレクターのグラブロックに命じられるままナチスドイツゆかりの品に関係する手伝いをし、報酬にたびたび骨董品をおすそわけしてもらっていた。ある日ケヴィンは夜中に電話で呼び出され、グラブロックと取引のある私立探偵が消息がとぎれたので様子を見てくるように言われる。はたして探偵は住まいで何者かに殺害されており、ケヴィンはそこでヒトラー直筆の書状を見つける。その後、ケヴィンの家にトゥーレ協会の刺青をした男が侵入し、銃を突きつけてきた。拘束された彼は「甲虫を見つけるのに協力しろ」とロンドンからクララモアの屋敷まで連れまわされる。70年以上前にクララモアで起こった殺人事件の真相とは。謎の殺し屋が追い求めるA.Hitleriは現存するのか。そしてケヴィンは生きて帰れるのか……?
 いかにもオタクな、ケヴィンの饒舌な語りが楽しいパートだ。

*1:http://www.societies.cam.ac.uk/marlowe/otherprize.html

*2:実際にAnophthalmus hitleriという種がいるそう。

*3:http://ja.wikipedia.org/wiki/トリメチルアミン尿症

The Black Minutes (2010) by Martin Solares

 いよいよ内容の紹介に移ろう。
 巻頭には、親切なことに登場人物一覧表がついている。ただし人数は50を軽く超える。おまけに作中ではひとりのキャラクターが名前・あだ名・名字のいずれかで呼称されるため、しばらく読むのを中断していると、その組み合わせを忘れて途方にくれることになる。しかも表中の全員が、まっとうに本文に出てくるとは限らない。伝聞のみで登場する存在もいるし、<ややネタバレ>フーダニット小説ではないので、犯人がリストに書かれていなくてはいけないという本格のお約束なんぞ無視されている</ネタバレ>。こちとら大ざっぱな人間なので、とくに記憶しようと努めもしなかった。そういえばガルシア=マルケス百年の孤独』とか、ボラーニョ『野生の探偵たち』に対しても、登場人物が多くて把握がむずかしいという声をときどき聞く。個人的には、そんなの覚えられる範囲だけ適当に覚えておけばいいと考えている。気楽にいこうよ。
 さて、本書には警察署の人間だけで20人ほどが登場し、その多くにニックネームがついている。たとえば第一部と第三部の視点人物であるレーモン・カブレラは、通称「エル・マセトン」――花瓶とか、たらいを意味するあだ名を持つ。理由はわからない。あるいは私が読み飛ばしたのかもしれないが。中東系の「ベドウィン」刑事やら、いつも放浪していて署で見かけることがほとんどない「魔術師」刑事といった面々は、往年の日本の刑事ドラマを思わせる*1。ジーパン刑事にマカロニ刑事みたいなものだ。この本は、彼ら警官たちの捜査活動を中心として成り立っている。


《ストーリー》
 主人公カブレラは、メキシコ・タマウリパス州の架空の街、パラクアンの警察署に務めている。妻に去られ、最近とみに出てきた腹を少し気にしている、あまりぱっとしない男である。パラクアンは、著者ソラレスの出身地タンピコの近郊の港湾都市という設定だ。植民地時代から街の運が少し上を向いたかと思えば、やはり駄目だったと判明するパターンが繰り返されてばかり。カブレラ同様、いまひとつ活気や希望に欠ける街なのだ。
 第一部は、ジャーナリストの死にまつわる謎をカブレラが地道に捜査するパートだ。全体の四分の一ほどの長さがある。時にいけすかない同僚や上司に悩まされ、自分の身にも危険が迫ってくるのを感じとりながら、彼は非番の間にも独自に調査を進め、過去の事件との繋がりを洗い出す。はっきり言って、ここまではきわめて地味な警察小説であり、あまり胸躍ることはない。しかし第一部は長い助走にすぎないのだ!
 第二部で本書はいきなり、現代から1970年代へ飛ぶ。主人公もカブレラから、孤独な刑事ヴィンセンテ・ランヘルに交代する。ここからぐっと物語は深みを増し、テンポも上がる。
 ランヘルは昔、バンドのギタリストだったが、キーボードを担当する恋人が他のメンバーと密通していたことを知り、脱退して音楽の道自体をあきらめる。警部補の伯父に誘われ、手ほどきを受けて彼は警官として新たな生活を始めた。ところが伯父が亡くなると、縁故採用のランヘルは実際に優秀であるにも関わらず署内で疎まれ、孤立してしまう。かくして、同僚から助けを得られぬ状況のまま、彼は都市をゆるがす連続殺人鬼の正体を暴かねばならなくなる。
 第二部にはランヘルが過去を回想する場面が多く、本筋の合間に読者は、センチメンタルすぎない、ほろ苦い味わいを愉しめる。しかも、このパートで出てくるのはクセのある人物ばかり。共産主義者ゲバラ大好きなジャーナリスト(おまけにいわゆるツンデレ)は、つかの間ながらヒロイン役を務める。実在の人物であるTraven Torsvan(B. Traven)は国を追われ、最愛の女性と別れた流転の半生を語り聞かせてくれる。国際的な名声を得ている老犯罪学者、メキシコのシャーロック・ホームズことAlfonso Quiroz Cuaronが招きに応じ、颯爽と登場する。こちらも実在の人物で、かつてトロツキー殺しの下手人をつきとめたこともある御仁。以前、ランヘルの伯父と共に事件を解決し、友情を育んでいた設定になっている。さらにアルフレッド・ヒッチコックまでもがちらりと姿を見せる。また、ボンボンのヒッピー少年が、ジャーナリストとして潜入ルポをすることを決意し、勝手に捜査の場に闖入してきたりもする(そしてランヘルが彼のお守りを押しつけられる)
 強烈なキャラクターたちが次々と舞台に立ち、そして次々と退場する。その過程で、少しずつ連続殺人犯の素性をつきとめるために必要な材料が集まっていくのだ。

 犯人当てが実質不可能であり、どんでん返しがあるわけでもないので、狭義のミステリとしては楽しめない。だが、第二部の結末で犯人を追いつめたとき、物語はエンターテイメントの王道からいきなり脱線する。ひそやかに敵のアジトへ突入したヒーロー/探偵役がふりかざす正義は、一部の人間の都合のためにあっけなく打ち砕かれる。読者はランヘルたちを襲う非情と暴力をただ見守ることしかできない。読者だけではなく、カブレラにできるのも無力に過去のできごとを知識として受け止めるのみだ。
 ひとことで説明するなら、この小説は異様に蛇行した社会派ノワールなのである。何人もの登場人物が運命の瞬間――タイトルの《黒い時》に直面する第二部後半は、まちがいなく本書のピークだ。
 社会派ノワールと評したが、つねに「重たい」小説ではない。あちこちには他愛もないお遊びもしかけてある。遺体の発見者に作者と同名の人物がいる。既存の作家の名前をパロディ化したキャラクターが出てくる*2。たびたび、元FBI捜査官のUFO研究家に関するニュースが作中のマスメディアで報じられるのもおかしい。UFOと異星人に関するエピソードは、結局、本筋とは一切関係がない(と思われる)が、こうした物語の枝先の部分にもしっかり目を向けていると、UFO研究家が最終的に謎の失踪を遂げてしまったことがわかる。遊びつくさねば気がすまない読者向きの隠し要素といったところだろうか。
 そう、枝葉まで密度が高く、読みでがある本なのだ。作中でランヘルが聞かされる伝承もまた愉快である。
 ドイツからメキシコへ落ち延びた一家のドラ息子が、虎人間になってしばしば近隣住民を襲う。すばやすぎて常人には対抗するすべもない。だが、生贄を出さなくてはいけなくなった一家の末っ子が、ついに決死の退治を試みる。虎男の故郷の味ザウアークラウトリースリングワインでもてなし、さらに鳥の丸焼きを与えるとはたして虎男は夢中になってむさぼり食う。酔った虎は「鳥の骨ですよ」という少年の嘘を信じて、チキンに仕込んであった銀の銃弾をいくつも飲みこみ、ついには斃れるのだった。なんじゃそりゃあ! これも本当にある伝承にもとづいていたりするのだろうか。こんなシーンもある。夜、自宅内で怪しい物音を聞きつけたランヘルは、虎男の逸話を思い出し、おそるおそる確かめにいく。物音の発生源は、食べ残しを狙って入りこんでいたアライグマの一家だった。物語が緊迫していく中で一服の清涼剤のような場面だ。読者の肩の力を抜かせるための、ソラレスなりのサービスなのかもしれない。
 虎男のエピソードがどれほど深くランヘルの記憶に刻まれたというのか、この後、犯人の元へ突入する前夜に彼は、人語をしゃべるジャガーに襲われる悪夢を見る。


 『黒い時(仮)』は謎や伏線がきれいに回収される小説ではない。まったく新しい小説というわけでもない。70年代のパートの強烈な輝きには確かに引きこまれるが、一方で、第三部の感傷的な余韻の美しさも第二部あってこそだとも感じる。過去編とくらべ、現代編は色あせて見えてしまうのだ。5段階で点をつければぎりぎり4に満たないかもしれない。しかし、読むのにかかった時間だけの価値はある。まちがいなく楽しい読書体験ではあった。今はとにかく、マルティン・ソラレスという新たな書き手の登場をただ祝いたい。
 ところで、彼はおそらく、この本でみずからに「現実味のある警察小説を書く」という制限を課している。したがって作中の超常的な要素は、すべて夢か幻覚という扱いだ。しかし冒頭のごく短い『黒い時』の話*3や、不正に手を染めた小悪党がかつて私刑に処した男を目撃するシーンにおける、不安なムードはかなり好みで、今後恐怖小説やもっと幻想味の強い小説を書いてくれないものかとつい期待を抱いてしまう。

The Black Minutes

The Black Minutes

*1:実際に観たことはないんだけどね。

*2:バイアス・ウルファーだとか、コーマック・マコーミックだとか。後者は黒々とした小説の書き手、コーマック・マッカーシーにかけていると言われているが、さらにエリック・マコーマックともかけていたりはしないだろうか?

*3:もともとソラレスはある日みた悪夢と、強迫観念をきっかけに、本書の題名と『黒い時』にまつわるこの逸話を思いついたそうだ。

復活宣言

 お前のブログは冬季限定ラミーチョコレートかなんかか、というお叱りを受けそうだ。じつに半年にわたってここを放置していた。どこかのどなたかに「更新停止」というブックマークを貼られてすらいた。
 最近は仕事が忙しく、思うように小説も読めないが、これからも妙な本をときどき紹介していくつもりだ。リクエストなりアドバイスなり、なにかありましたらお気軽にどうぞ。
 ところで“The Black Minutes”の読書を再開する直前、私はロバート・ロドリゲスの傑作B級映画『マチェーテ』を観た。メキシコ出身の元凄腕捜査官、通称:山刀(マチェーテ)が悪党どもをズンバラリ、グッサリと片づける痛快なバイオレンスアクションである。腐敗した警察、だめな神父、吹き荒れる暴力、いずれも本書の第一部にも出てくるものだ。ちなみに“The Black Minutes”の表紙と背表紙には、よくよく目をこらすと血痕がしたたっている。おお、ここにバイオレンスの気配を感じ取ってしかるべきだったのか。
 さて、ボンクラ映画愛好者の皆さんから「ロドリゲスの『マチェーテ』ほど突き抜けてはいないにせよ、ちょっと共通するところのある面白い小説があるってんなら、タランティーノの『イングロリアス・バスターズ』とうっすら共通するような本もあるんじゃないの?」という声が聞こえてきそうだ。きそうか?
 ええ、あるんですよ旦那。こちらも新人の処女長篇で、けっこう現地では話題になった本でして。へへへ……。
 (近いうちに読み終え、ここで感想を書けるように鋭意努力します)

メキシコから来た異色クライム・フィクション - The Black Minutes (2010) by Martin Solares(1)

舞台はメキシコの中規模都市である。ジャーナリスト殺人事件から幕を開ける、息もつかせぬ、驚嘆すべき処女長篇だ。主人公の捜査官、通称エル・マセトンは街が抱える暗い秘密へ急速に引きずりこまれていく。秘密、それは過去の惨劇。未解決に終わった連続少女殺人事件であった。これぞパルプファンタスマゴリアラテンアメリカ文学の極致。警察小説という体裁ではあるが、私が今年読んだ中では比肩するものがない文学的傑作だ。ソラレスがラテンアメリカ文学へ与えた業績は、エドゥアルド・ラーゴがイベリア文学史に記念碑的長篇Llamame Brooklynを残した意義に等しいだろう。『黒い時』は、それほどにいい。
ジュノ・ディアス  The Times Literary Supplement Books of the Year 2008

 『オスカー・ワオの短く凄まじい人生(仮)』が新潮クレスト・ブックスからなかなか出ない(2010年11月現在)ジュノ・ディアスは、同書でピューリッツアー賞を獲得し、さらに名声を高めることとなった。彼が、前述のような惜しみない賛辞を贈ったメキシコ産ミステリが、このLos Minutos Negrosである。
 『黒い時(仮)』はメキシコ出身のマルティン・ソラレス(1970-)が初めて世に出した長篇だ。7年間かけてじっくりと完成させたというこの小説は、2006年に大手モンダドーリから出版された。翌年、ロムロ・ガジェゴス国際小説賞*1の最終候補4作に残っている。すでに仏語・独語に翻訳されており、今年ようやく英訳が出版されたところだ。処女長篇にしては、異例といっていい脚光の浴び方ではないだろうか。
(以下は余談なので、もう一歩深く読みたい方以外は、どうぞ読み飛ばしてください)


 さて中米文学を語る上で欠かせないのは、おそらく65年以降のメキシコ生まれ、ホルヘ・ボルピやイグナシオ・パディージャ等を中心とした《クラック・ムーヴメント》*2の作家たちである。彼らは「ラテンアメリカ文学ブーム後のラテンアメリカ文学」が型にはまるのを避けようと奮闘し、90年代半ばには宣言文*3を発表したらしい。断定的に語れないのは、ひとえに私がムーヴメントから生まれた実作を読んでいないからだ。『ユリイカ』や『群像』などでチラチラと紹介されながら、クラック・ムーヴメントの作家たちは今もって日本でほとんど書籍化されていない。それどころか英訳の数もさほど多くない。一過性のラテンアメリカブーム去りし後、スペイン語読者以外の目に触れる機会がないまま埋もれている作品は、どれだけ存在するのだろうか。
 ソラレスは自作がホルヘ・ボルピ選のアンソロジーに収録された縁からか、ボルピのインタビューを行なっている*4。そもそもソラレスは2000年代、フランスのソルボンヌ大学で学び、スペイン語文学(イベリアおよびラテンアメリカ)の博士号を取得した人だ。なんでも90年代メキシコのメロドラマ、いわゆるTelenovelaで論文を書いたらしい*5。インタビューを眺めれば、娯楽小説にも文学にも深い愛情を持った人物であることがうかがえる。名が挙がる作家はハイスミスシムノン、ダール。チャンドラー、ハメット、マンケル。そしてベルナルド・アチャーガにボフミル・フラバルだ。
 次の記事から始まる私のレビューは、当方の知識不足ゆえ、メキシコ文学の系譜やメキシコ社会の現況を踏まえて書かれてはいない。あらかじめご了承ください。

*1:作家でもあったベネズエラの元大統領の名を冠する。隔年開催で、秀でたスペイン語の小説に与えられる。

*2:英語での呼び名を採用。原語は“la generacion del crack”

*3:英訳を掲載していたサイトが消滅し、いまやInternet Archiveでしか読めない有様だ。内容は興味深く、当時の熱気が伝わってくる。

*4:http://bombsite.com/issues/86/articles/2623

*5:http://www.ucm.es/info/especulo/numero36/marsolar.html

タイポグラフィー+ファンタジイ- Light Boxes (2009) by Shane Jones

“Light Boxes”(Penguin Books, 2010*1) by Shane Jones
 シェーン・ジョーンズは1980年生まれのアメリカ人。以前紹介したBlake Butlerと関わりがある作家で、巻末の謝辞にもバトラーの名前を挙げている。もともと小出版社で600部刷っただけの処女長篇が、スパイク・ジョーンズがプロデュースについて*2映画化することになり、版権がペンギンに移った……という経緯だそうだ。150ページ弱と短い。残念ながら、肌に合わなかった。ダンサー・イン・ザ・ダーク』的な『オズの魔法使い』というかなんというか。ややネタバレするのでご注意を。
 ペンギン版の表紙は本当にかわいいので拡大して見てほしい。鳥仮面紳士。

Light Boxes

Light Boxes

 二月も200日めを超えようとしていた。極寒と雪はいつまでも街から去らない。空の上に暮らす絶対者「二月」のしわざである。ある日「二月」は空を飛ぶすべてのものを禁止するおふれを出した。「二月」の僧侶たちは気球を打ち壊し、鳥や飛行機の載ったページを書籍から切り取る。おふれに反抗した6人の気球作りたちは鳥の仮面をつけ、レジスタンス活動を始める。教授と呼ばれる科学者の力を借りて、冬を追い出す作戦を実行するのだ。
 街に住む男サッデウス・ロウは気球作りたちに仲間になるよう誘いを受ける。その矢先、思いのままに街を操る「二月」によって彼の愛娘ビアンカは神隠しに遭う。妻セラアとサッデウスの悲しみと絶望は深く、二人は「二月」との戦いに身を投じる。具体的な活動は、薄着で外に繰り出してまるで春が来たかのように振舞ってみたり、地道に雪にお湯をかけてみたり
 ところが「二月」の力は圧倒的で、レジスタンスたちは次々に斃れていく。いっぽうの「二月」はサッデウスに刺殺される予知夢に悩まされていた。

 というおとぎ話じみた筋立てで、いろいろ無茶苦茶。ビアンカは川で死んでいるところを発見されるのだが、のちに幽霊(?)として戻ってくる。そして本人は「死体が偽者で私は生きているのに、誰も信じてくれない」と主張する。さらにやや唐突に現れる「蜂蜜と煙の香りの少女」というキャラクターがややこしさに拍車をかける。彼女の特徴はビアンカと共通する。おそらく「二月」は肉体を複製することができるように、人間の精神をも複製することが可能なのだろう。ビアンカの魂、意識の複製が一人歩きしているのが「蜂蜜と煙の香りの少女」という存在ではないか。
 どのへんが個人的に苦手かというと:
 まず視点人物を1、2ページごとにころころと変える書き方。ページのトップにその時の視点人物の名が大きく書かれている。特にこの手法が物語に効果的に作用することはない。マンガか、映像のための原案を読まされているような気になった。頻繁に場面が変わりすぎて、あまり小説という感じがしないのである。
 説明の少なさ。もちろん何もかもわかりやすく書く必要はないのだが、読者が想像するヒントすらない部分が目につく。一番大きな瑕疵は「蜂蜜と煙の香りの少女」の考えていることが全然わからないところ。彼女の「二月」への愛と憎しみが物語を、街を大きく変化させていくのだけれど、愛するに/憎むに至った過程がまったく語られないのだ。そのへんを推察できる要素がないと読んでいるほうは置いてきぼりである。「愛してる」「憎んでる」とキャラクターに喋らせただけで終わりって、そりゃないよ。
 結末では「6月」「7月」と書かれた二つの太陽が、輝かしい夏をもたらして終わる。そのままにしておいたら今度は暑すぎて困るのでは。なぜ四季の巡りも元通りにしないのか。冬は悪、夏は善で人間への恵み、みたいな割り切りはあまりにも単純ではないか。なんだか色々と詰めが甘い小説である。ベタから逸脱するところがないのと、細部への行き届かなさがどうにも気になる。作中でリチャード・ブローティガンの名が出てくるがしかし、ブローティガンや春樹のファンタジックな作品と比べると雲泥の差があるのだ。

 良かったところ:
 「二月」は紙片に書くことによって、思いのままに現実を操る。「蜂蜜と煙の香りの少女」もなぜか彼の能力を使うことができて*3、クライマックスでは「二月」がサッデウスに振りかかる死を何パターンも殴り書き、バッドエンディングをいくつも用意する。(「熊に襲われて死ぬ」と書けば、サッデウスが隠れているクローゼットの中から熊の声が聞こえてくる。) 対する「蜂蜜と煙の香りの少女」はハッピーエンディングを次々並べあげていく。メタフィクション的な戦いが楽しい。
 ちなみに彼女は「二月」にとっても幸せな大団円を作り上げようとする。ところが「二月」は予知通りサッデウスに倒される。このへんも神話の時代からのベタ、運命から逃れられないという展開だ。裏表紙にある、作家Jedediah Berryの評は「(前略)シェーン・ジョーンズは、フレッシュで驚嘆に値する一方、古い物語に感じる懐かしさと同種の親しみを与えてくれるおとぎ話を織り上げた」である。確かに、はなからもっとベタなものだと思って読めば落胆もしなかったかもしれない。挿絵を描いているKen Garudunoの画風もどこか懐かしい感じ*4。絵になるシーンがいくつもあるので、実際に映画が完成すれば観てみたい。

 かなりむごたらしい死にざまが何回か出てくるので、悲惨なものが苦手な人には向かない。あと表紙の鳥仮面たちが全然活躍しなくて残念だった。色違いの鳥仮面6人衆+博士の組み合わせに、戦隊ものの特撮のような展開を期待したのだが。ということで、今回の本はあまりお勧めしない

*1:初出はGenius Press, 2009

*2:つまり監督は別の人である。

*3:彼の被造物=分身であるから?

*4:http://www.kengarduno.com/home.html